これは三の郭と同じく、護佐丸が居住するときに増築した部分です。坂道から 井戸へは細めの階段などを降りていかなくてはいけませんが、薄暗いウフガーには今でもしっかり水が溜まっていました。
※少し長くなりますが、中城城跡を知るために必要な事ですので、是非お付き合いください。
中城按司護佐丸は1390年頃生まれ、山田城城主の養子となり読谷山按司を継ぎました。尚巴志が北山征伐の軍を興すと、連合軍に参加。第2軍大将に抜擢された護佐丸は、海路を通った尚巴志の本軍と分かれて陸路を北に向かい今帰仁城に突入。首尾よく北山王国を滅ぼしました。
尚巴志は、先今帰仁城主の血筋である護佐丸を北山守護に任命。その後北方を監視するために座喜味城の築城も命じます。護佐丸は山田城を崩して得た石材を運び名城を築いたので、築城家としての名声を高めました。
1422年、第一尚氏王統2代国王となった尚巴志は、二男尚忠を北山監守に任じ、護佐丸を座喜味城に移して北山の統治体制を堅固にします。護佐丸は座喜味城に18年居城し、中国や東南アジアとの交易で第一尚氏王統の安定を経済的にも支えました。
勝連城を根拠地とする茂知附按司が勢力を拡大すると、尚巴志は中城の地領を護佐丸に与え城の改築を命じ、息子の尚布里を江洲、尚泰久を越来に置きこれを牽制します。その後阿麻和利が勝連城の茂知附按司を滅ぼし、交易で実力をつけてきました。
1440年、尚忠が第3代国王となると、護佐丸は再度中城城に居城を移します。

1454年、王位継承権をめぐる王族の内乱が起きて尚泰久が第6代国王として首里に入ります。護佐丸の娘を正室としていた尚泰久王は、長女百度踏揚を阿麻和利に嫁がせ、護佐丸・阿麻和利との姻戚関係で内乱で失墜した王権の復興を図ろうとしました。
1458年、護佐丸は力をつけてきた阿麻和利に対抗するため兵馬を整えますが、これを知った阿麻和利が-護佐丸に謀反の動きがあり-と王府につげます。
泰久王は阿麻和利を大将に任じて中城城を包囲すると、王府軍と聞いた護佐丸は反撃せずに妻子とともに自害します。
その後阿麻和利は首里を急襲しますが、百度踏揚が勝連城を脱出して王府にこの事態を伝え、阿麻和利は王府軍により滅ぼされたと伝えられています。 以上王府の歴史書によるものですが、他にもいくつかの推論があり、実際のところは今も不明です。