沖縄世界遺産のための歴史

沖縄の世界遺産イメージ
 世界遺産をより楽しむための歴史
 このページでは、沖縄県の世界遺産を見られる方々を対照に 、最低限知っておいたほうが楽しめると思う三山時代以降第一尚氏滅亡までを中心とした歴史について書いています。 より長い時系列の歴史の流れは、沖縄の歴史のページをご参考になさってください。
沖縄の歴史のページ  沖縄が北山、南山と三山に分かれていた頃、察度といわれる中山王が浦添から首里へと都を移しました。首里城の原型はこの時に作られ、進貢貿易のもスタートしました。しかし2代目の武寧王は国民の支持を得る政治が行えなくて、評判の良かった佐敷の按司、尚巴志が各地の按司に推され1406年に中山を占拠。
尚巴志は自分の父である尚思紹を1407年に王位につけ、第一尚氏王統が誕生しました。 王位についたのは尚思紹でしたが、実質国を動かしていたのは尚巴志です。 彼は旧王統の家臣を差別することもなく、能力本位で登用。中国人の壊機や倭寇の頭目など幅広く才能のある人を要職につけました。
琉球王王冠貿易も中国のみならず東南アジアにまで対象を広げ、交易で手に入れた物資を近隣の按司達に与えて王統の基盤を確固たるものにしていきます。
中山を把握して約10年後、尚氏は今帰仁城に居を構えた北山王攀安知が武力を背景にした強引な政治を行っていたことに着目し、北山周辺の名護按司、羽地按司、国頭按司を懐柔、1416年にはこの北山を攻めます。 中山軍は当初苦戦しましたが、攀安知の腹心をも味方につけて戦局を好転させ、攀安知を自害へと追い込みます。 北山を制圧した尚巴志は自らが中山王に即位。 今帰仁城に次男の尚忠を北山監守として任命して北部の安定を図ります。
又、当時の南山王、他魯毎は、言い伝えによると尚巴志の持つ金屏風を欲し、これと南山城近くの嘉手志川の利権との交換をしたことにで水源を失い領地の農民らから反感を持たれ、無視できなかった南山配下の按司達の要請を受ける形で尚巴志が南山を攻めて、1429年にこれを制圧。
ここに 琉球初の統一王が生まれました
尚巴志の後を継いだ3代目尚忠、4代目尚思達、5代目尚金福はいずれも短命の王で その後尚金福の子の志魯と弟の布里の間に王位争いが表面化します。 これが武力闘争になり、首里城も火災で焼けて二人共に死亡。 結局尚巴志の弟である尚泰久が6代目の琉球王となります。→


この尚泰久の時代に大きな戦乱が起きます。
一つが護佐丸の乱護佐丸イメージ この時中城城主であった護佐丸は、尚巴志の時代から仕えた武将で、三山統一にも活躍した忠臣といわれています。
勝連城主であった 阿麻和利が首里城に 「中城城の護佐丸に謀反の兆しあり」と報告。 (これに関しては、当時 阿麻和利が武器を集めて天下を取るために謀反を起こそうとする気配を察知し、それに対抗するために護佐丸が武具を整えていた所を阿麻和利が利用したという話もあり、又別の説では力をつけてきた護佐丸に恐れを感じた尚泰久の陰謀だったというものもあるので、事の真実は定かではありません。) この知らせで尚泰久王は、阿麻和利を大将とした軍で中城城を攻めますが、 護佐丸は琉球王府の旗を確認すると一戦も交えることなく自害。
後に王に忠誠を尽くした武将として今でも舞台で演じられたりしています。阿麻和利イメージ その後まもなく 阿麻和利は尚氏王統を倒す野望を持って首里城に攻め入りました。(阿麻和利の乱) しかし 王府軍におされ勝連城へ退却。 尚泰久は鬼大城を大将に討伐軍をたて勝連城を攻めます。激戦があったものの、言い伝えでは鬼大城が女装して勝連城内に入り、阿麻和利を討ち取ったといいます。(これも史実は明らかでなく、勝連城の地元では、今も肝高の阿麻和利と呼ばれて親しまれています。)
尚泰久王の後を継いだのが尚徳王ですが、若い即位でもあり上手く人心を把握する事ができなかったようで、王朝の重鎮であった金丸の忠言を聞かずに確執が生まれ、金丸は隠居をすることになります。尚徳王が若くて死亡した後、隠居している金丸を国王に推す動きが出て尚徳の一族は殺されて第一尚氏はここで終わり、金丸が王につき第二尚氏王統の始まりになります。

 とこんな流れを踏まえたうえで沖縄の世界遺産を楽しんでいただけたら、きっと興味も倍加することと思います。各遺産の発行するリーフレットにもより詳しい解説が載っておりますので、そちらもご参考に。 ※琉球歴史の謎とロマン 著者:亀島 靖 発行:環境芸術研究所・琉球王国の歴史 月刊沖縄社 などを参照しました。

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