神の島・久高島

伊是名島イメージ

神が遍在する貴重な島です。

久高島での注意事項 カベール フボーウタキ ウドゥンミャー(久高殿) ウフグイ(外間殿) ウプラトゥ(大里家) ハンチャタイ ハタス ロマンスロード ヤクルガー ミーガー イザイガー ピザ浜 イチャジキ浜 タチ浜 イシキ浜 シーマシ浜 ウラー浜 ウパーマ ウディ浜(ロマンスロード下) メーギ浜 久高島の店と食事 久高島余話
久高島の神話
  沖縄ではアマミキヨという神が久高島に降り立ち沖縄の国づくりを始めたという伝説が伝わっています。
 琉球開闢に関する伝承はいくつか伝わっていますが、沖縄の歴史書である中山世鑑には、天の神が開闢の神アマミキヨ(アマミク)に命じて島作りをさせたと言う話がでています。始めに九箇所の聖地を作ったと言われていますが、現在はその中の七箇所が聖地として残っています。
久高島もその中の一つにあげられていますが、久高島に伝わる島造り神話としては以下のようなものも残っています。
島建神話
  昔アマミヤとシラミキヨという2人がニラーハラー(ニライカナイ)から久高島に来ました。その頃の島はまだ波に洗われる状態で、アマミヤは持って来たシマグシナーという棒をそこに立て、天の神に頼んで天から土、石、草、木を降ろしてもらい、それで久高島ができました。
※ニライカナイ=東のはてに有るといわれる神の国、理想郷
これに類するバリエーションはいくつかあるようですが、この島建てに使ったと言われる棒が今でも久高の旧家に残っているというのが興味深いです。

人造り神話
昔久高島の対岸にある百名から、兄と妹が船で島にやってきました。そして島の南に有る徳仁で寝る場所を七回変えて漁をしながら暮らしていました。その後島の被害海岸沿いにあるアグルラキに住み、最終的には島の始祖家のひとつであるガルガナー家に落ち着き、その子供達が久高島の人々の始祖である。
(神話同士若干の齟齬がありますが、神話の世界ですから…)
五穀神話は大里家のページに書いてあります。

久高島の信仰
  琉球王朝第二尚氏尚真王の時代に祭政一致のために聞得大君(きこえのおおきみ)を頂点とした神女組織が確立し、久高島では久高ノロと外間ノロを中心に系列化されました。
 それ以前から島で伝えられてきた自然崇拝、祖霊信仰、妹を神格化するおなり神信仰などが融合したかたちで引き継がれてきました。
その祭祀、信仰が生活の中に溶け込んで、現代まで年に二十数回の祭祀を続けられています。

  その中でも12年に一回行われる、島で育った女性を新しく神女として祭祀組織に迎え入れるためのイザイホーは、秘祭としていましtが、1966年に島外からの取材、撮影が許されたことから全国的に有名になりました。次ぐ1978年のイザイホーも同様に外部からの取材、撮影を許可し、その様子は記録映画にも残され、何人かのカメラマンが写真集などにまとめたりもしました。
イザイホーの写真
(写真は南城市のパンフレットから複写させていただきました)
  それから12年後の1990年、神女となる女性が不足していたり、儀式を最も良く理解し進行の段取りを良く知る久高ノロの補佐役であった西銘シズという方がお亡くなりになったりで、イザイホーは途切れてしまいました。
そして2002年。同じように新しく神女となる女性がいないなどの理由で行われていません。
 現在1978年が最後のイザイホーと言うことになっています。
島では高齢化が進み、このように新しい神女ができないとなると、年中行事として行われている祭祀の存続すら危ぶまれます。
神の島、久高島は、古来からの伝統が守れるかどうかの分岐点に立たされている島でも有るのです。

ありえない事件
 久高島で心無い人達が、神聖な場所に無断で立ち入ったり、風葬地の状態を写真撮影して公開したりという、島の方々にとっては耐えられないような暴挙がなされた悲しい事件もありました。
最近では本島から来た宗教団体が、久高最高の聖地セーファーウタキの樹木を何本も無断伐採するという事件もあります。
  そのたびに、久高島の方々がどれだけ心を痛められたか、想像するに余りあるものが有ります。
 私達が久高島を訪れる時には、島に住む方々の生活の場をお借りして遊ばせていただいていると言うことを、決して忘れないようにしたいものです。
久高島俯瞰全景クボーウタキ入口
久高島の道と空
十数年の時間
 私は始めて沖縄に来た時に、まずこの島を訪ねました。この島には民家のようなたたずまいの商店が一軒だけあり、店先には線香とウチカビ(あの世の通貨?)が置かれていて、若干のパンやお菓子、飲み物などが少しだけ奥に並べられていました。
 貸自転車やさんが一軒と民宿が2軒。
 珊瑚の欠片でできたような白い小石が敷き詰められた、何処までも青い空と植物の緑との素敵なコントラストをつくる道を自転車で走ると、畑のそばの木陰でおじいさんがラジカセから流れる島歌を聞きながら昼寝をしていたり、道端には繋がれた山羊が何頭かのんびりと草を食んでいたり。
とても本島から近いとは思えないような離島らしい離島でした。

  それから何年かして来た時には、港が整備されて綺麗になり、食事をすることができる店があったことに驚いたりしました。一部の道はコンクリートで舗装され、工事の車両が何台か行き来していました。

今回久高島に来ると、貸自転車やさんは3件に増え、一部道路は舗装整備され、観光用の看板も設置されて宿も2軒増えていました。商店も何軒かあるようです。
  集落の木陰に置かれた椅子に、数人のおじさんとおばあさんが腰をかけてゆんたくしていました。
 私は探して見つからなかった商店の場所を聞くと、
 「その店の主はここにいるよ。」
  と一人のおじさんがおばあちゃんを指差して教えてくれました。お店の取材をさせてほしいとお願いした所
 「私も年取ったから、店はもう閉めようと思っている所だから取材は要らないよ。」との返事。

  それから少しだけ色々な話を皆さんから聞かせてもらいましたが、この島これからどうなるんだろう、という問いかけに
 「畑で物がたくさんできるわけではないし、フェリーが走ってるんだから観光客を呼ばないと…。」
 「ん、俺はこの島を観光化したらだめだと思う。なんとか生活して守ることを守っていくのが一番だと言うのが俺の考えだ。」
 など話を聞かせてくれました。
  島の人口は平成21年度の調査で276人。19年度には292人でした。高齢化は進んでいて、若い人達は本当に少なく感じられますが…

 久高島に有る久高小中学校の生徒数は昭和43年には152名が平成10年には10名しかいなくなりました。しかし、そこから徐々に生徒数は増え始め、平成19年には48人にまで回復してきています。
彼等が貴重な文化の担い手として育ってくれれば、未来の久高島も今までのように独特な光を放ち続けてくれるものと思います。
※久高島に関しては、「日本人の魂の原郷沖縄久高島」著者:比嘉康雄氏・発行:集英社、「神々の古層1〜5」著者:比嘉康雄氏・発行ニライ社、「沖縄県の歴史散歩」著者:沖縄歴史研究会・発行山川出版社、「首里城王朝紀」比嘉朝進氏・発行:風土記社などを参考にさせていただいています。探究心豊かな著者様に感謝。

関連情報:沖縄の歴史浜比嘉島


飛行機で那覇空港から他県に向かう時、多くの便が久高島の上空付近を通過します。
エメラルドクリーンに輝く海に囲まれた細長いこの島は、昔から東海上にあると信じられていたニライカナイ(ニラーハラー)とだぶらせるかのように神の島と言われてきました。

  今、物質文明が進むにつれて、第一次産業しかない離島の常として、この島でも過疎高齢化が進んでいます。
 それを何より痛切に感じていたのが他ならぬこの島の神女さん達だったのかもしれません。

秘祭を公開してまでしっかり記録を残し、自分達がいなくなった後、いつの日か子孫達がその伝統の祭祀を執り行おうと考えた時、口伝として伝え続けた内容を映像と記録というかたちで伝えたい、という切なる願いが感じられます。

これから、この島の将来がどんなものになるかは誰も予測できませんが、彼女たちの願いがかなう日が遠からず来てくれることを祈らずにはいられません。


この島の祭祀、伝統を素晴らしい情熱で足繁く島に通い、素敵な写真を撮り続けた写真家、今は無き比嘉康雄氏の書籍、写真集を見るにつけ、そうか、島に呼ばれると言うことはこう言う事なんだと納得しました。

彼の情熱に感謝。

そして、私も何時かは沖縄に呼ばれて来たんだね、と言われる様になれたらと思いました。
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